2011年5月16日月曜日

兵庫県の出雲街道・因幡街道 嘴崎、林田、飾西、青山に

兵庫県の出雲街道・因幡街道 嘴崎、林田、飾西、青山に行きました。

觜崎は 本陣、脇本陣が残り
林田は江戸時代初期操業の酒造ヤエガキ酒造主家の長谷川邸と 大庄屋 三木家屋敷、 飾西は本陣、青山は虫籠窓の町屋があって町並みを堪能できました。

2011年5月8日日曜日

出雲街道 久世 平成23年5月4日訪問

出雲街道と、大山往還が交わり、旭川の水運でも繁栄した、宿場町久世。長いアーケード商店街もあり、この地方の中心都市としての機能ももっているようです。


出雲街道 勝山 平成23年5月4日訪問

出雲街道の宿場町であり、三浦2万石の城下町、旭川の高瀬川の水運でも栄えた勝山です。本うだつの商家もありました。醤油屋だったそうです。


出雲街道 美甘(みかも)村 平成23年5月4日訪問

凱旋桜の新庄村と城下町勝山のほぼ中間にある、美甘(みかも)村、出雲街道の宿場町と栄えた、町並みが残っています。 立派な煙突がありましたが、酒蔵でしょうか、




出雲街道 新庄村 平成23年5月4日訪問



出雲街道 根雨宿場 平成23年5月4日訪問


岡山の県境に近い、鳥取県日野町の根雨、出雲街道の宿場町とたたら製鉄で繁栄していました。本陣もあって参勤交代では賑わっていたそうです。

根雨宿の大鉄山師「近藤家」



根雨は(ねう)と読み、あまり聞き慣れない名前ですが、伝統的な宿場町の佇まいが残る町として知られています。根雨宿は古くから、たたら製鉄と出雲往来で栄えた宿場町でした。出雲往来は、古くから畿内と出雲国を最短でむすぶ道であり、古代には出雲から大和へ鉄を運ぶ道として、江戸時代には出雲・伯耆諸藩の参勤交代の道になりました。日野往来との分岐点として要衝でもあった根雨宿には松江藩主の休憩所兼藩庁でもある茶屋本陣が置かれていました。
根雨

古代からたたら製鉄の産地であった日野地方の生産量は、江戸時代に入ると急速に拡大し、多くの有力な鉄山師たちを生み出します。その中に、日野最大の製鉄家である近藤家があります。安永8年(1779)備後屋喜兵衛(近藤喜兵衛)が日野の製鉄事業に乗り出してきました。幕末から明治にかけての製鉄生産量は中国5県で実に96%を占めています。すでの鳥取県下で最大の鉄山師となっていた近藤家は、日野郡内に61カ所の鉄山と78カ所の製鉄工場を経営していました。
日野の製鉄が大きく変わるのは、明治6年に発布された「日本坑法」からです。
この法律は鉱物資源の国有化と採掘権の国家による独占を定めたもので、鉄山師は国から鉱区を借り、借区税を納めるほか、さまざまな制約や義務が課せられ、巨額の資本が必要であり、旧来からの日野の製鉄家は急激に衰退していきました。
そこで、県は明治9年に根雨宿の鉄山師近藤喜八郎を鉄山用係に任命し、再生を図ります。しかし、大正頃から輸入鋼に圧迫され始め、昭和に入るとまもなく鉱山の火は途絶えました。
国道181号線は根雨の町を高架でバイパスしている為、無意識に走っていると道は街並みの頭上を通り越し通過してしまいます。これゆえ古い街並みが守られているのですが、旧道へアクセスするには、いったんJR伯備線日野駅を目指した方が分かりやすいです。

この駅前から続くおよそ500mにわたり続く伝統的な街並みは白壁の塗籠造りと千本格子に赤い石州瓦と、この地方で標準的な色彩の街並みですが、その中でもかつての製鉄業で栄えた重厚な旧家の屋敷が町並みに強いインパクトを与えています。


旧出雲街道に残る古い町並み

出雲街道   

出雲街道は姫路の青山というところから松江城の三の丸まで全長53里、 約210kmあまりの街道です。鉄道が街道から少し外れたこと、山間の街道であったことなどが災いして明治以後はすたれてしまったこところも結構あります。しかし、発達しなかったことが幸いして、古い町並みが結構残っています。

道筋
 山陽道の姫路から分かれて飾西宿、觜崎宿、千本宿、三日月
 宿、佐用宿(ここまで播磨国);因幡街道と分岐、土井宿、勝間田宿、津山宿、
 坪井宿、久世宿、高田(勝山)宿、美甘宿、新庄宿(美作国)、
 板井原宿、根雨宿、二部宿、溝口宿、車尾宿、米子宿(伯耆
 国)、安来宿、出雲郷宿、松江城三の丸(出雲国)まで。

使用目的
 古代たたら鉄を運んだ道。後鳥羽上皇や後醍醐天皇の隠岐の
 島配流の道であり、江戸時代には参勤交代で使われ、庶民の
 出雲大社への参拝の道。